真の教育とは一体何なのか?

みなさんこんにちは、macbanbanです。

突然ですが、みなさんが考える最高の教育とは一体何ですか?

最近教育って何だろう?と考えることがあり、自分なりに考えてみたんですが、どうもよく分からなくて。

東大に入ることは確かにスゴいことだし一つの成功例と言えるでしょうが、そこに辿り着くことが果たして最高の教育と言えるのだろうか?

中には偏差値的に高くない学校もありますが、そこの学校に入ったからってそれが教育的に正解ではないということではないと思います。

今回真の教育を考えてみた時、一体何が真の教育なんだろうという疑問が湧き、それについての解答を持ち合わせていないことに気づきました。

果たして、真の教育とは何なんだろうか?

ちょっと考えてみたいと思います。

教育とはそもそも何?

今回教育について考えるときに教育基本法を調べてみましたが、そこには下記のような記載がありました。

文部科学省には教育基本法というものがあるらしい。

以下引用

 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

第一章 教育の目的及び理念

(教育の目的)

  • 第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)

  • 第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
    • 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
    • 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
    • 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
    • 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
    • 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

(生涯学習の理念)

  • 第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

引用終了

なかなか小難しく書いてますが、要するに社会に出るために必要な教育を平等に受けることができるようにしましょう。

知識と教養を身につけ、社会で働けるようにしましょうということ。

文部科学省では教育についてこのような定義をしているということのようだ。

親が子供に求める教育とは?

教育と聞くとまず「勉強」。

これが真っ先に頭に浮かぶ。

そして、その次に当たるものが見当たらない。

一般的に教育とは、「勉強」オンリーだと言っていい。

勉強以外で教育とはあまり聞いたことがない。

「明日から死ぬほど勉強して東大目指します!」と宣言する子供に反対する親はおそらくいない。

数十万する参考書でも喜んで買ってくれるかもしれないし、有名で高額な学習塾にも通わせてくれそう。

だけど、「明日から死ぬほどゲームして、プロゲーマーになります!」と子供が宣言したら大半の親は反対するでしょう。

反対する人は、「ゲームなんて何役にも立たない!」ときっと言うでしょうね。

まして、ゲームPCや数十万円かかるゲーム機を全部揃えたいと言ったら絶対大反対されそう。

勉強とゲームの差がどれくらいあるのか説明できないけど、一般的には明らかに勉強は賞賛される。

勉強しすぎて頭がおかしくなるかもしれなくても。

確かにゲームは人生にあまり役に立たないかもしれない。

ですが、心底全力で頑張れば何かしら得られるものはあるはず。

一方勉強はどうか?

東大目指すくらい死ぬほど勉強したからといって何の役に立つのだろう?

数学で微分積分を勉強しても、社会に出て使う人は何人いるのか?

歴史の出来事をたくさん覚えてもいつ使うのか?

数学や社会の先生になるのなら必要でしょうが、普通の営業や経理に配属されたとしてこれらはおそらく使わない。

経理で計算が必要になっても、微分積分なんて必要ない。

そうすると、東大目指して死ぬほど勉強したものも、ゲーマーになるべく死ぬほどゲームしてもさして大差ないのではないか?

どちらも大して残らないのに、勉強は良くてゲームはダメ。

何でだろう?

幸せとは何か?という観点から考えれば、真の教育教育が見えてくる

今私たちが見ている教育はある種偏差値至上主義だ。

東大ならOK。

でも偏差値的に高くない大学は良くないみたいな風潮がある。

塾の募集を見ればそれがよく分かる。

昨年度東大合格者数〇〇名!という宣伝文句が大体ある。

というか、それが前面に出ている!

偏差値の高い学校に進学した実績が前面に出され、その数字で評価するみたいなことが大多数だ。

偏差値の高い大学を出るとなぜいいのか?

就職に有利で、大企業に勤めることができるからか?

大企業に勤めると給料が高いから幸せになれるのか?

この理論は間違ってはないが、それが全てではないはずだ。

東大だって入学定員があるわけだから、全員が全員合格はできない。

東大に入れなかった人はいるし、東大に行かなくても生きていける。

そして、楽しい人生もきっと歩めるはずだ。

人によって幸せの定義は違うだろう。

人から羨ましがられることを望む人もいれば、他人がどう思おうが自分のやりたいことをやる人もいる。

人それぞれだ。

人それぞれの幸せの概念や価値観は違うのに、受けさせたい教育は横一線の偏差値至上主義。

みんながみんな偏差値の高い学校を目指すなんて馬鹿げてる。

なぜみんなはおかしいと思わないのか?

東大に行って大企業に就職すると一生安泰ならまだ分かる。

でも、そんなことはない。

東大に行って大企業に就職しても、不幸になることもある。

会社は倒産する可能性もあるし、会社が合わなくて自分で退職するかもしれない。

偏差値の高い大学へ行っても、人間関係やしごとが 上手くいく保証なんてないのに。

本人が望むなら話は別だが、本人が望まないのに勉強させて偏差値の高い学校に入れようとするのは本当にいいことなのか?

仮に東大に入れたとして、周りの天才たちに囲まれて挫折したりしないだろうか?

挫折したらそれこそ不幸でしかない!

生きる気力を失って引きこもったら、それこそ本当に不幸だ。

生きるとは選択と決断だ!

生きるとは選択と決断だと思う。

まずは学校に行くのか行かないのか?

行くならどこの学校に行くのか?

金銭的な問題でその人が行きたい学校へ行かせることができないこともある。

しかし、本当に行きたければ奨学金を取ったりバイトをしたりしてお金を工面するだろう。

自分で解決策を見つけるはずだ。

真の教育とは、自分自身で選択し決断させる能力とそれを実行する能力を養うことにあると思う。

たとえ偏差値の高い大学に行っても、この能力は養えない。

ハーバード大学を卒業して英語を操れても、この能力は全く別物だ。

自分自身で選択し決断させる能力とそれを実行する能力を養うには知識と教養も必要だ。

そういう意味では、勉強も絶対必要。

だけど、勉強一辺倒ではこの能力は養えない。

勉強しつつ、他の能力を鍛えなければいけない。

偏差値偏重の教育でなく、自分で考え決断する。

そして、その決断を実行させる経験を積ませないといけない。

親が進学先を決めるのではなく、子供自身に決めさせることが大切になってくる。

小さい子供に話しかけるとき、その子供が会話を得意でないと返事に時間がかかることがある。

そのときよく見かける光景が、親や祖父母が代わりに答えるというもの。

子供は質問の内容を理解し、自分で答えを考え伝えようとするのに時間がかかる。

しかし、その時間を待ちきれず、周りの大人が答えるケースが非常に多い。

別の話になるが、一時期子供をスイミングに通わせていた。

私は更衣室に子供一緒に行ったけど、着替えは自分でさせていた。

脱いだ服も自分で畳ませていた(遅刻しそうになった時は私が畳んであげたが)。

他の子たちを見てみると、大抵お母さんが送迎をしていた。

お母さんが送迎していた子供は、お母さんがほぼほぼ100%着替えを手伝っていた。

まずはパンツ、シャツ、ズボン、靴下というように順番に子供に渡し、子供がそれに沿って着替えていた。

脱いだ洋服はお母さんが畳んでロッカーにしまう。

子供ができることを子供にさせていなかった。

子供ではできないことなら大人が手伝うのは仕方がないが、子供でもできることを大人がしてあげるには違うと思う。

全員が全員そうではないだろうけど、日本にはそういう傾向がある気がしてならない。

子供ができることは子供にさせ、自分で考え決断し、実行する経験をさせるべきだ。

本人が学びたいことを学ばせる、そして、その中から大人になって必要とされる選択・決断・実行力を養うべき。

これこそが真の教育のように思えてならない。

そういう教育が家庭だけでなく、学校でも普及することを願いたい!

だが、現実は難しい。

文部科学省で働いてるのは、偏差値の高い大学を出た職員ばかりだ。

教育は偏差値の高くない大学や地域によって変わるはずだが、彼らにはその発想はない。

全校生徒40人の学校と1クラス40人の学校が同じカリキュラムで勉強しているからだ。

より偏差値の高い学校に行った文部科学省の職員が、偏差値が高くない学校のことも考えて仕事をするとは思えない。

文部科学省の職員こそが偏差値至上主義者であり、それを否定することはまず有り得ないからだ。

勉強が苦手な子には、勉強以外の得意なことを学んで欲しいと個人的には願う。

それが許容できる社会こそが真の教育にたどり着く第一歩だと思う。

未来の子供たちのためにあるべき教育を進めて欲しいものですが、無理でしょうね。

文部科学省の役人も政治家も大して変わりはないから。

合掌

独り言

Posted by macbanban